書評『アドラー心理学入門』岸見一郎 著

書評, 思考法・考え方, 心理学

<引用>

原因をこのように過去や外的なことに求めてもそれらを変えることは事実上不可能なことなのです。問題行動を起こした子どもの親に、幼い頃に愛情を十分受けていなかったからであるとか、育児の仕方が間違っていたというようなことを指摘したところで、たとえその通りだと仮にしてもタイムマシンがあるわけではないので過去に戻ることはできません。 

このような見方とは違って適切な対処の仕方が明確にわかるということが、行動の目的を見ていくことの大きなメリットです。目的は過去にではなく未来にあるからです。アドラーは私たちに関心があるのは過去ではなく未来である、といっています。

過去は変えることはできませんが、未来なら変えることはできますし、目的は人の中にあるので、たとえ過去や外的なことの何一つ変えることができなくてもいいのです。


育児の行動面の目標として、

1.自立する
2.社会と調和して暮らせる 

これを支える心理面の目標として

1.私は能力がある
2.人々は私の仲間である  

不適切な行動には注目しない一方で、適切な行動に注目します。そうすることによって、やがて不適切な行動は減っていきます。

適切な行動することで注目されるのであれば、殊更に不適切な行動をしてまで注目されようとする必要は無いからです。 

 褒めるのとは違って、すなわち、評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持ちを伝える事は勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか、「うれしい」とか「助かった」と言ってみます。  

下心がある場合は勇気づけにはなりません。行きつけは今の自分の気持ちを言う事であっても、「次」は無いのです。このような危険を回避するために、「存在」そのものに注目したいのです。何かをしたからではなく、ただ「存在」していることがすでに喜びであると言うことを伝えてみます。  

理想の子供を基準にして現実の子供をそこからいわば引き算するのではなく、ただ生きていると言う状態を基準にして見ていけば、「生きている」という事実そのものが、既に喜びですし、どんなこともプラスに見ることができます。そして感じたことを言葉に出して言うことが勇気づけになるのです。

例えば人が遺伝を持ち出して自分の能力には限界があるというようなことをいうとした場合、既にそのように遺伝を持ち出すというそのことが、人生の課題から逃れようとしている兆候であると見ることができます。

自分の今のあり方について、遺伝、あるいは、これまでの親の育て方などを持ち出すことを、アドラーは因果関係があると見せかけることと呼んでいます。すなわち、実際には何も因果関係のないところに、因果関係を見出すということですが、そうすることの目的は、自分の行動の責任を他のものに転嫁することです。遺伝や親の育て方、環境等々を自分が今こんな風になっているということの原因に見せかけるわけです。

  アドラーは原因論とは反対に、広い意味での精神機能、すなわち、感情、心、性格、ライフスタイル、病気、過去の経験、理性、嗜好などを個人が使うのであって、決して逆ではない、と考えます。そういったものに私たちが支配されるのではなく、それらを何らかの目的のために使う、と考えます。

したがって劣等コンプレックスの場合のように、Bができない理由として挙げられるAが必ず人を支配する力を持つのではなく、全体としての私が任意の時点においてBをできない理由としてAを使うことを選択するわけです。 

 ある行為を選択する時点でその選択の責任はその人にあります。

<書評>

1.原因ではなく、目的に着目する

アドラーの考え方でとても大切だと思うものの一つに、「原因ではなく、目的に着目する」というものがあります。

現在何かのトラブルが発生していたとして、過去の小さな失敗がその原因であると特定できたとします。   その時に「ではどうするか?」とこれからの行動を考えた場合、過去に戻ってやり直すことはできません。  

企業の場合に求められるのは、再発防止策を策定してそれを徹底することでしょう。   個人の場合にもやはり同じ過ちを繰り返さないために再発防止策を考えておいた方が良いように思います。

頭の中で考えるだけではなく、日記にその時の気持ちを書いておくなど文章化しておいた方が良いでしょう。   ただ、どうしても「喉元過ぎれば暑さを忘れて」しまいがちですから、文章化したものを定期的に見返すリフレッシュの行動も必要になってきます。この辺りは再発防止策に限らず、勉強したことや思いついたアイデアをまとめたメモなどに対しても適用したいところです。

アドラーの考え方では、やり直せない「過去」や「他人」などの変えられない「外的なもの」に着目するのではなく、「今この時から」の変えることのできる「自分」に着目して行動することを推奨しています。    

私は小学生の間、親の勧めでピアノを習っていました。しかしピアノが好きではありませんでした。その理由は、ピアノの練習中に弾き間違える度、親にひどく怒られたからです。  

ピアノのレッスンは、先生の前で教則本から毎週の課題曲を弾くのですが、上手く弾けない場合は不合格となり、その曲をもう一週間練習してくる必要がありました。不合格だった日は、そのことを親に言うとまた怒られるので、ひどく憂鬱になりました。

怒られる→嫌いになる→練習しない→不合格になる→また怒られる、というループを繰り返し、結局初級者向けの教則本を数冊終わらせた程度でピアノのレッスンをやめてしまいました。  

それから思春期を迎えて流行りの音楽に興味を持つようになったり、クラシック以外の生の演奏を見る機会があって、ピアノに限らず「楽器を演奏できるってカッコイイなぁ」と思うようになりました。それとともに「どうして自分はもっとちゃんとピアノやっておかなかったのか、もったいなかった」とも思うようになりました。  

そして、当時ピアノに興味を持てなかった自分のことは棚に上げて、成人してから、親に対して「あんなに怒らずに、もっと褒めるようにしてくれていたら、ピアノを続けていられたはず」と非難してしまったこともあります。  

これは、自分がピアノをやめてしまった原因を「外的なもの」である親のせいにしてしまっていた例ですね。「ピアノをやめた」という行動の責任を親に転嫁していたのです。  

アドラーの考え方では、ある行為を選択した時点で、その選択の責任はその人自身にある、ということになります。   とかくうっかりすると、自分の行動の責任を人のせいにしてしまいがちです。気をつけておかないといけませんね。

2.子育てについて

特に社会人になってからは、滅多なことでは「怒る」ということがなくなっていたのですが、子供が生まれて、子供が立って歩くようになってからは、怒ることが多くなってしまいました。

それはもちろん、ちょっと目を離している内に子供が棚や机の上からお皿などを落としてケガをしてしまうのを防ぐためです。  

しかし、まだこちらの言葉の意味も十分に理解できない子供に対して怒りをぶつけた後は、いつも言いようのない不快感を感じていました。  

アドラーの考え方に従うならば、例えば、いたずらをすることで子供が注目を集めようとしているのであれば、それには反応しないようにする。でも、ご飯を残さず食べることができたり、食べ終わった食器を流しまで持ってくることができたら、それにはしっかり注目する。ただし褒めてもいけない。感謝している親の気持ちを伝えて「勇気づける」のが良い、ということになります。

ただし、良い行動を続けさせたいという下心を持って「勇気づけ」を行ってはダメ。この辺りのさじ加減は非常に難しいです。

ただ、子供が生きていてくれること、それだけで満足、それだけで嬉しい、この状態を基準にした眼鏡をかけて子供を見るようにする。こうすると、いつものいたずらも愛くるしくて仕方なくなってくる気がします。そうすると、いちいち自分が理不尽な怒りをぶちまけることも馬鹿らしく思えてくるから不思議です。  

あまり叱ってばかりだと子供は「自分には能力がある」という自己効力感をいつまでも持つこともできません。そして社会に自分の仲間がいることを実感できなくなるかもしれません。  

それに、自分の考えではなく、誰かの考えに依存してしまい、「自立」して、社会と調和して暮らすことも困難になっていく可能性も高まります。  

子供の自立のために、褒めるのでもなく、叱るのでもなく、「勇気づける」。   これは、親にとってもじっくり取り組んでいく必要のある大きな課題です。定期的に自身の子供に対する行動を振り返る必要があると思いました。

3.自分の行動に責任を持つ

今の自分の状況を他責とするかしないか、その違いはとても大きいものです。確かに今の自分に悪影響を与えたと考えられる出来事も少なからずあります。  

「自分は○○ということがあったから、△△できないんだ」

そうやって今が上手くいかない理由を説明するのに都合が良いから、過去の経験を利用する。私にはとても良くあることです。今でもあります。  

でも、その居心地の良さに安住してしまうと、いつまでたっても「何も変わらない」んですよね。いや、現状より状況が悪くなることはあっても良くなることはおそらくない。  

そう、確かに周囲の凄い人達を見ていると、自分はなんてダメな奴なんだろうと劣等コンプレックスの塊になって落ち込んでしまいます。  

そこで、「自分にはあの人と違って○○がないから無理だ」と諦めてしまうか。それとも、そこで「ないものねだりをしても仕方がない。比べても仕方がない」と踏み止まって、自分でも出来る行動をとることができるか。その礎となる考え方の転換をアドラーは与えてくれているように思います。  

私達はこれから何かをしようとする時、その行動の結末を自分で引き受けないといけません。上手くいかなかった時、後で他者や環境のせいにすることは、一時的には気が楽になるかもしれませんが。そのままでは前に進むことはできません。  

上手くいかなくても、行動の結果出会う新しい現実を真摯に受け止めましょう。そこで怯えて立ち止まってしまわずに、上手くいくまで行動を続けていけるよう、勇気を持って進んでいきたいと思います。

メルマガでも配信中です。

Posted by akaneko