書評『21世紀を読み解く 竹田教授の哲学講義21講』竹田青嗣 著
<引用>
竹田
哲学は、東西を問わず、宗教にずっと遅れてだいたい紀元前5世紀前後に登場するけど、その出発点を見ると哲学が独自の思考方法のルールをもっていたことが分かる。そしてこれを整理すると、①概念 ②原理 ③再始発ということになる。少し説明してみるね。
①「概念」の使用……宗教の世界説明の基本の方法は「物語」。つまり神話だね。これは長い時間をかけて作られた知恵だけど、「物語」なので、共同体を超えることができない。これに対して、哲学は概念を論理的に使って世界を説明する。「概念」は少し進んだ文化ならどこにも共通にあるから、共同体を超える普遍性を獲得するんだね。このことによって哲学は、開かれた言語ゲームになったんだ。
学生
「言語ゲーム」って、ヴィトゲンシュタインのいったやつですか?
竹田
ヴィトゲンシュタインは、哲学を定義してそういったんじゃないけどね。でも、哲学は言語ゲームである、ということの意味はとても大事。哲学というと、何か世界や人生についての深淵な思索だと思っている人は多いからね。
いちばんのポイントは、哲学はどんな問題でもいいがある問題を立てて、誰がそれをいちばんうまく説明する「キーワード」を出せるか、という「キーワード」のゲームだということ。そのキーワードを哲学では「原理」(アルケー)と呼ぶんだ。これが哲学の方法の二番目の原則。
学生
へー、原理って「キーワード」ってことなんですか?
竹田
その通りです。とりあえず進むと、②「原理」の提示……たとえば、ギリシャ哲学の創始者タレスは、「万物の<原理> [アルケー]は水である」、と説いたとされている。ここで「原理」とは「真理」のことじゃなくて、今言った任意の「キーワード」。
タレスの意はこんな感じ。世界は神が作ったのか、混沌から出てきたのか自分は知らないし、誰も検証できない。そこで私は、世界は最も基礎となる最小単位から出来ていると考え、それを「水」と呼びたい、というわけです。これが「キーワード=原理」の提示だね。
竹田
それから科学と哲学はまったく違うものだ、と言う俗説が出回っているけど、これも大きな誤解だよね。タレスの「水」の考えは、水素原子がいちばん単純な原子、という説のまずプロトタイプ。これが世界にはまず最小体が存在し、その組み合わせで森羅万象が出来上がっている、という考えの起源だからね。つまり、ヨーロッパの自然科学は、宗教の「物語」の方法ではなく、哲学の「キーワード=原理」の方法から出てきた。
学生
ということはつまり、哲学の方法が科学の方法のはじまりということですか。
竹田
よく憶えておいてほしいのは、科学は、あくまで概念、原理、再始発という哲学の基礎方法から生まれてきた、ということ。ただ、近代になってその探求の領域がはっきり違ってきた。基礎方法は同じだけど、その後の方法が違ってくる。だから自然科学では共通の答えが出るけど、哲学ではなかなか出にくくなるんだね。自然より、人間や社会を説明する方がはるかに難しい。なぜなら一言でいって、意味や価値の問題が深く入り込んでくるからです。
学生
なるほど、だいぶ分かってきました。じゃ、最後のルールの「再始発」をお願いします。
竹田
③「再始発」は、こうです。宗教では、ほとんどの場合、その教義の開始者、つまり教祖の言葉はある絶対的なものとして聖化される。フォロアーたちがその教説を変えたりするのは厳禁だね。あえて変える必要が出てきたら、その解釈だけを変えていくんだ。
しかし哲学はこれと正反対。タレスの弟子はアナクシマンドロスだけど、タレスの「万物の原理を水である」に反対して、「万物の原理は<無限なるもの>(ト・アペイロン)だ」と主張した。さらにもう一人の弟子のアナクシメネスは、「空気・気息(プネウマ)が原理だ」と言った。師匠のいうことなんか、聞きやしない(笑い)。でもまさしくそれが、哲学にとっては本質的な方法なんです。
こんなイメージかな。誰かが何かを説明するために、ある「原理」 (キーワード)をテーブルの上におく。おいたとたんに、そのキーワードは、実際の現象や経験との間で、いろんな疑問や矛盾が見えてくる。そのとき哲学では、始祖の言葉に絶対的な真理があると考えて、これを固守してやっていくのではなくて、より包括的な新しい「原理」 (キーワード)を置いて、説明体系をもういちど、できるだけ根本的な仕方で編み直す。このことが、哲学が、「概念」、「原理」、「再始発」という方法でより普遍的な説明方式を創出する開かれた「言語ゲーム」であることを保証しているんだね。
そういうわけで、哲学というと、世界や自己の存在についての根本的な「謎」にかかわるもの、というようなことがよくいわれているが、まったくの「俗説」です。この謎は、もともとはむしろ宗教が伝統的に持っていたものだからね。哲学はもちろんこの問いを受け継いでいる。だけど哲学は、そういう存在の問いだけではなくて、どんな問いについてもそれを普遍的に思考していく、つまり人々の共通了解を拡張してゆく独自の方法として登場したんだね。
したがって、哲学の本質は「問いの内容」にあるのではなく、「概念」、「原理」、「再始発」というルールによる普遍的な言語ゲームというその「方法」にあるんだ。それからもう一つは、このことで哲学は、近代の科学的方法の基礎となったということも忘れちゃいけない。
1.この本はどんな本か?
哲学者である早稲田大学教授の著者が、雑誌に連載していた哲学のエッセンスの解説をまとめた本です。学生との対話形式という形で、古代から20世紀までの様々な哲学者や思想家達の考えの要点を紹介していきます。
本書に登場するのは、プラトン、アリストテレス、デカルト、ホッブズ、スピノザ、ヒューム、ルソー、カント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクス、フッサール、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、ソシュール、ハイデガー、といった人々です。
時代順に哲学者達の考えが紹介されていくため、哲学史を学ぶように、これから哲学を学びたい人が、これまでの哲学の発展の流れをざっと掴むことができるという意味で有用です。
この本を読んで、自分がその考え方に魅力を感じた哲学者が見つかったら、そこから、その哲学者の考え方を紹介した入門書や、哲学者自身の著書を読んでみる、というように学びを深めていくためのベースとする使い方ができるでしょう。
ただし、この本を哲学の入門書の「最初の一冊」にするのはあまりお薦めできません。というのは、著者の話の聞き手である「学生」は、「哲学を全く知らない人」ではなく、「すでに哲学を学んでいる人」、「各哲学者が提示した代表的な考え方について知っている人」として描かれているためです。従って、そのあたりの「前提知識」を私達読者の側が共有できていないと、著者と学生の対話の内容についていけなくなる可能性があります。
それでも、今回引用した「宗教と哲学の違いの説明」の部分のように、「なるほど!」と目から鱗が落ちるようなものの見方も多数登場するので、そういった部分を見つけられるだけでも視野が広がるため、読む価値はあると思います。
2.他者の物語を「ピン止め」する
今回引用した部分では、「物語」は共同体を超えられない、と書かれています。宗教における神話は、他の宗教を信仰する人には信じてもらえません。そこまで大きな話でなくても、自分の暮らす地域での「ルール」は他の地域では通用しない、というのはよくある話です。
「郷に入っては郷に従え」という言葉もありますが、家庭、学校、会社など、環境が変われば当たり前とされる考え方も変わります。
組織など、他の人がいる環境において気をつけておきたいことは、自分にとっての当たり前と、他の人にとっての当たり前は異なるという点です。
そのことを忘れてしまい、自分の当たり前を押し付けようとする(あるいは相手の当たり前を押し付けられる)と、その場ではうまく収まったとしても、のちのち関係性がこじれてきてしまいます。
従って、人間関係において、自分にとっての当たり前、自分が信じる「物語」が届く射程範囲は自分の中だけ、と思っておいた方が良いかもしれません。
毎日顔を合わせる家族にさえ、自分の物語が伝わらないことは良く起こります。そしてまた、逆もしかり、です。
おそらく、私達一人ひとりが抱えている「物語」は皆、全て違うものです。そして、他人の物語に対する「好き」、「嫌い」はあっても、その物語に「正解」、「不正解」は無いのだと思います。
とすると、人間関係が悪化するのを避けるためには、「相手の物語を否定しない」ことが求められると思います。
自分とは異なる信念から発せられた物語であっても、否定はせずに「そういう考え方もあるのか」という程度で留めておく。
そして、
「Aさんの考え方、物語はこんな感じ」
「Bさんの考え方、物語はこんな感じ」
というように、他者の物語を壁のクリップボードに「ピン止め」していくイメージでストックしていきます。
そうすると何が起きるでしょうか。
他者の物語、他者の視点を「完全否定」したり、自分の意識の外に「完全排除」せずに収集することは、自分自身を相対的に見ることに繋がっていきます。
他者の物語を集めれば集めるほど、どんどん自分が相対化されていくのが分かるでしょう。
その感覚は、幽体離脱して自分の姿を上から見下ろしてみる感覚に近いと思います。
他者の物語が増えるに従って、幽体離脱した自分はどんどん自分から離れて上昇していき、それに伴い自分の姿はどんどん遠く、小さくなっていくでしょう。
そのような宇宙の果てから自分の姿を見るような状態まで行きついたとしたら、自分と他者がそれぞれお互いのの物語ばかりを主張しあって言い争う、なんてことは、なんともちっぽけで滑稽な姿に思えてくるのではないでしょうか。
ここまでをまとめると、宗教という大きな物語が、共同体の壁を超えられないように、自分にとっての当たり前、自分が信じる「物語」の射程範囲は自分の中だけであり、それは自分という壁を超えることはできないのだと思います。
ただし、自分の外にも自分以外の他者によって信じられている物語があり、例えそれが自分にとって受け入れがたいものであっても、「そのような物語が存在する」ということを知ること、そして多くの物語に接して、それらを拾い集めていくことは、自己を相対化し、世界の大きさと自分の小ささを知り、謙虚になるために役に立つ、と考えます。
3.恐れずに、世に問う
「物語」という方法では共同体や自己の壁を超えられないのだとしたら、私たちはどうやって他者との間に理解という橋をかければ良いのでしょうか。
その答えとなるのが引用した部分にも書かれている哲学の「方法」です。
哲学は、ある問題に対して、誰がいちばん上手く、その概念を説明できるキーワードを出せるかを競う「言語ゲーム」だと述べられています。
そしてそれによって、人々の間の「共通了解を拡張していく」、その「方法」( 「概念」→「原理(キーワード)」→「再始発」という方法の繰り返し)こそが哲学の本質、とのことです。
特に原理(キーワードの提示:「自分はこう考える」ということ)とそれに対する反論を受ける(再始発)部分が鍵になります。
何故ならここに必ず「他者との接点」が発生するからです。
ある概念について、自分はこう考える、というキーワードを提示して世に問うた(議論のテーブルの上に載せた)とします。すると、いろいろな人から「いや、その考え方ではこの点と矛盾している」とか「この事象が説明できない」などと指摘が入ります。
そして、それらの指摘を元に、さらに思考を磨き、練り上げて、また新たなキーワードを考えて提示していきます。
これを繰り返す中で、ようやくその考え方が受けいれられる(共通了解が得られる)ということになります。
この「哲学の方法」はそのまま、学会での発表や学術論文の査読など、「科学の方法」そのものに当てはまっています。
自然現象を説明するためのモデルを立てて、そのモデルが適当かどうかを公の場で世に問いかけているからです。
もちろん、学会でのたった1回だけの議論で共通了解が完了するわけではなく、共通了解を得るための論争が続く場合がこともあります。
しかし、その後の実験などで新たな事実が確認されると、誰かの提示したモデル(原理、キーワード)が「より現実に近い」(正しい、ではない)ということが分かり、そのモデルやそこまでの考え方は「共通了解」として理解されることになります。
このようにして科学に対する人間の知識の土台は拡張されてきました。
「物語」の場合は内側で完結してしまっているため、そもそも議論のテーブルの上に載せることができません。それは物語の場合、「事実が否か」を検証することが誰にもできないためです。
つまり、他者との間で理解を深める(共通了解を得る)には、哲学の方法に基づいて、ある事柄(「概念」)を説明する自分の考え(「原理(キーワード)」)を発信して、それを議論していく(「再始発」)ことが必要になってくる、ということです。
何よりもまずは、自分の考えを「発信する」ということが大切ですね。考え自体の正解や不正解がどうとかではなく、「反応が得られる」ことによって、思索をさらに深めていくことができるからです。
議論のテーブルにおける批判を恐れずに、世に問い続けた先人達の力によって、今私たちが暮らす「世界に対する理解」や「便利な科学技術」は作られているわけです。
従って、私達の次の世代の世界が、今よりも暮らしやすい、明るい世界になっているかどうかは、私達が「哲学の方法」に基づき、深く考え、共通了解の範囲をどれだけ広げられるか、そのことにかかっているのだと思います。
4.まとめ
・他者の「物語」を集めることで自己を相対化して謙虚になることができる
・他者との間の理解を深めるためには「哲学の方法」に基づいて自分の考えを発信して議論の場にさらし、共通了解の範囲を一歩ずつ拡張していくことが必要
・次の世代の世界は、現代の私達が共通了解の範囲をどこまで広げられるかにかかっている
<今日の読書を行動に変えるための個人的チャレンジシート>
1.この本を読んだ目的、ねらい
・様々な哲学者の考えに触れる
・哲学史の概要を掴む
2. 読んでよかったこと、感じたこと
・宗教と哲学の違いについての理解が深まった
・哲学の方法の適用範囲について学んだ
3. この本を読んで、自分は今から何をするか
・概念→原理→再始発のサイクルを回すため、自分の考えを言語化して発信していく
・カントやデカルト、ニーチェやフッサールについて入門書を読んでみる
4. 3か月後には何をするか、どうなっていたいか
・哲学の方法に基づき自分の考えを提示していくことで、他者との間の理解の橋を増やしている
・考えて、世に問う頻度が増え、それと共に思考能力が高くなっている
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